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太平洋における戦局が怪しくなり、日本が追いつめられつつあった1943年、国内の野球界も追いつめられていた。敵であるアメリカ生まれの野球は、敵性スポーツと呼ばれ、その立場はどんどん困難な状況に追い詰められていく。
まず東京六大学野球と都市対抗野球が中止となり、4月には文部省の通達で甲子園の中等学校野球大会も中止となった。
しかし野球を生業としている職業野球は、そう簡単にやめるワケにはいかない。陸軍情報局から頻繁に呼び出しを受けるが、そのたびに対策を講じ、なんとか生き延びようともがいていたのである。
そのひとつとして有名なのが審判用語、規則用語の日本語化だ。たとえば審判用語の、1ストライクは「よし一本」、セーフは「よし」、アウトは「ひけ」という具合に変更され、規則用語も、ストライクは「正球」、ボールは「悪球」、ファールは「圏外」、セーフは「安全」などと改められていった。
それからこれ以外でも、以前から野球は卑怯なスポーツと言われるときに必ず例としてあげられていた「隠し球」の禁止。さらに帽子を野球帽から戦闘帽に変更し、挙手の礼(敬礼)の励行、ユニフォームの色は国防色とするなどの決まりが次々に作られていった。
まさに野球の暗黒時代である。
ただし、これらがどこまで厳密に守られていたのかは定かではない。試合の流れの中で、審判が思わず「セーフ」と言ってしまったなんて話はけっこうあったようだし、ユニフォームにしても国防色化をすべての球団が守っていたワケではない。戦闘帽の着用に関しては全球団に行き届いていたようだが、ユニフォームについては各球団の方針はバラバラだった。
いちばん最初に国防色のユニフォームを導入したのは名古屋軍だが、阪神は従来のユニフォームを使いつづけていた。43年あたりになると、国内は戦争の激化で極端な物資不足に陥っており、実際問題として国防色のユニフォームの生地を入手するのも難しかったのである。
当初、縦縞のユニフォームに戦闘帽で試合に臨んでいた阪神だが、国防色ユニフォームの指令が出たあとは、すべての試合でグレーのユニフォームを使うようになった。このグレーのユニフォームは創設期のOSAKAの胸マークがつけられていたユニフォームを改造したもので、国防色ではないが、地味な色調なので「これでなんとか勘弁して」というコトだったようだ。
しかし面白いのは袖に虎の袖章が健在だったコトだ。これは44年に「自己アピールのしすぎ」という理由で背番号まで廃止された以降も残され、44年の11月に日本野球報国会が活動休止を宣言するまで、チームの顔としてアピールを続けたのである。
戦時中も生き延びたトラの袖章。今もしっかりと引き継がれている。
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