Vol.3 草創期の苦闘

2011/7/15更新

初試合完投勝利

若林忠志はタイガース初試合で勝利投手となった。創設初年度の1936(昭和11)年4月19日、春の選抜大会を終えた甲子園球場で「球団結成記念試合」が行われた。東京セネタースを迎えての試合は正午開始。先発した若林は3安打1失点で完投。奪三振は5個と少なく、打たせてとる本来の投球がうかがえる。この日はダブルヘッダーで、第2試合の名古屋金鯱軍も5-3で破った。幸先よい船出だった。

タイガース結成記念試合。金鯱、セネタースナインとともに=『阪神タイガース 昭和のあゆみ』=

沢村栄治との投げ合い

後に「伝統の一戦」と呼ばれる巨人との記念すべき初対戦は6月27日。この年、巨人は米国遠征に出ており、当初は国内試合に不参加だった。帰国を待ち、「帰朝歓迎試合」として甲子園球場で行われた。タイガースは若林、巨人は沢村栄治と両エースを先発に立てた。試合は両投手乱調で点の取り合いとなり、タイガースが8-7の1点差で競り勝った。

快速球の沢村に対する豪打の景浦将、「七色の変化球」若林との対決は草創期のプロ野球の売り物だった。公式戦での若林の巨人戦成績をみると、79試合に登板し、28勝30敗。このうち若林、沢村双方が登板したのは13試合(両者先発は7試合)を数える。ともに勝敗がつかなかった試合も多く、通算では若林の3勝2敗だった。

沢村栄治

洲崎の決戦

初年度1936年のシーズンは勝ち点制で、タイガースは同点の巨人と年度優勝決定シリーズを戦っている。伝説として残る「洲崎の決戦」だ。12月9日から東京・洲崎球場での3連戦で、1勝2敗と覇権を逃した。若林は第2戦で今の規定で言うセーブをあげて勝利に貢献。決戦となった最終第3戦は5回から救援し4回を零封したが、沢村の踏ん張りの前に反撃なく敗れた。

洲崎球場跡地に建つ史跡説明板

史跡説明板には洲崎球場のグラウンド方向も示されている

温泉治療で復活

タイガースは2年目の1937(昭和12)年は秋のシーズンで初優勝、巨人との優勝決定シリーズにも勝って、初の年間王者となった。若林も春秋通算で17勝を挙げたが、当時主戦格で活躍していたのは御園生崇男や西村幸生だった。30歳を前にした若林はこの頃、激しい右肩痛に襲われていた。同年オフには鎌先温泉(宮城県白石市)で1カ月、年が明けた1938(昭和13)年には椿温泉(和歌山県白浜町)で温泉治療に出向いている。若林の苦闘を見てきた松木謙治郎が書いている。<最後の望みをかけた温泉治療だった。背水の陣だったが、この休養が再び名投手として復活させることになった>=『タイガースの生いたち』=。38年春のシーズンは全く投げられず、登板はなかった。復帰は同年秋。1シーズン制となった1939(昭和14)年には自己最多の28勝をあげ、防御率1.09で最優秀防御率のタイトルも獲得した。

若林の似顔絵をデザインした1939年のポスター=野球体育博物館蔵=

「醍醐味」の球数勝負

1940(昭和15)年には若林の投球を語るうえで、欠かせない試合がある。紀元二千六百年奉祝事業で初の満州(現・中国東北部)シリーズが行われた。甲子園ホテル(今の武庫川女子大甲子園会館)で壮行会が開かれている。8月11日、大連満州倶楽部野球場で阪急とのダブルヘッダー第2試合。1-0で完封した若林の投球数は80球。相手の森弘太郎は77球だった。両軍合計投球数で公式に残る最少記録は戦後1948(昭和23)年、同じく8月11日、大陽-阪神戦での「165」だ。この時も若林は木下勇と投げ合っている。満州では「157」で8球少ないが、戦前の記録は公式記録から除外されている。実際はプロ野球史上、史上最少だろう。若林と森は満州入りする郵船吉林丸の船室で「1試合27球が理想」と醍醐味を語り合い、「どちらが少ない球数で終えられるか」と勝負を誓っていたという逸話が残る。

昭和15年7月、甲子園ホテルで開かれた満州遠征壮行会。前列右から4人目が若林、5人目が松方会長=若林忠晴氏所蔵=

第1回満州リーグ記念品=野球体育博物館所蔵=

満州遠征で現地・新京のチームとタイガースの選手たち=『阪神タイガース 昭和のあゆみ』=

満州遠征を記念して作られた暑中見舞いのはがき=『阪神タイガース 昭和のあゆみ』=

この試合の公式記録員、広瀬謙三は記録の大家として知られ、後に殿堂入りしている。著書には「双方無四球」という項目があり、両軍投手が無四球完投した試合を列挙している。第1号がこの満州での試合だった。また試合時間56分は当時の最短記録。戦後1946(昭和21)年7月26日の阪神-パシフィック戦(西宮)で、さらに1分短い55分試合が成立。これがプロ野球最短試合となっている。ただ、満州での試合では阪急監督兼捕手・井野川利春のレガーズが壊れ、取り換えるのに4分かかっていた。若林も「実質52分だった」と記憶していた。

プロ野球創設時から球団や連盟運営に携わった鈴木龍二は<試合のスピードも特に留意した>と書いている=『鈴木龍二回顧録』=。人気の学生野球に対抗しようと、当時のプロは攻守交代などで時間短縮を心がけていたという。テンポも制球も良かった若林の投球は一つの手本だった。試合の長時間化が問題視されるいま、プロの魅力アピールにかけた先人の努力を思い返してみたい。

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若林忠志が見た夢
-プロフェッショナルという思想
出版社:彩流社
著者:内田雅也
価格:¥2,000円+税

筆者略歴

内田 雅也(うちた まさや)

1963年(昭和38)2月、和歌山市生まれ。桐蔭高、慶応大から85年スポーツニッポン新聞社入社。アマ野球、近鉄、阪神担当などを経て97年デスク。01年ニューヨーク支局長。03年編集委員(現職)。04年から『広角追球』、07年から『内田雅也の追球』のコラムを執筆。11年1月、『若林忠志が見た夢~プロフェッショナルという思想』(彩流社)を上梓した。

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