Vol.8 2リーグ制構想

2011/10/1更新

「虫」が伝えた本心

若林は1948(昭和23)年、一般ファンを対象とした新雑誌『ボールフレンド』をつくった。巻頭の「創刊にあたりて」で<球が命。その球の友にお報いする>と書き、一監督や選手としての立場を超え、ファン育成の趣旨を説いている。<日ごろ、他の雑誌を通じて言えなかったことも、自分の雑誌で思う存分述べたい>と宣言した。

注目すべきは「虫のたわ言」と題した雑報欄だ。虫とは「野球の虫」で、若林が球界諸問題に意見を書く。<野球の発展向上のためには、どうしてもアメリカのごとく2大リーグの対立是非。国民リーグに雌伏5年の秋(とき)を待つ>。過去に春秋2シーズン制や東西2地区制は提案していたが、2リーグ制を表に出したのは初めてだった。

文章が書かれた時期を確認しておきたい。印刷納本が1948年2月20日。年末年始も妻子が帰省した宮城県石巻に帰らず、創刊準備に動いていた若林は1月ごろに書いたものと思われる。表だって2リーグ制を提唱する者がいなかった時である。

異端者へのエール

エールを送った国民リーグは1947(昭和22)年3月に誕生したもう一つのプロ野球だった。戦後、自動車クラクション製造で巨額の利益をあげた宇高産業社長、宇高勲が主導していた。日本野球連盟への加盟も申請したが、「8球団制堅持」の申し合わせの下、各本拠地から閉め出された。同リーグ4球団は地方巡業を強いられた。観客動員の不振に巨額の税金にも悩まされ、結局1年で消滅した。本流を行くプロ野球から見れば、異端者だった。若林は個人的な交流があったわけではない。新球団に夢を描いていた。5年たてば、日本野球連盟と対等に戦える。大リーグのような2リーグになる。日本版ワールドシリーズができる。さらに、勝者が大リーグ王者に挑戦しようじゃないか――と夢を膨らませていた。

アメリカが背中を押していた

若林の2リーグ制を提唱した翌1949(昭和24)年、球界は再編騒動に揺れた。口火を切ったのは日本野球連盟名誉総裁、正力松太郎の「3大声明」だった。4月15日、東京・丸の内の日本工業倶楽部で記者会見を開き、「2大リーグの育成」「東京に新球場建設」「米球団の招待」を打ち上げた。

背景に戦勝国アメリカの思惑もあった。スポーツ、特に人気のプロ野球を発展させ、懐柔しようとする占領政策の一環でもある。連合国総司令部(GHQ)経済科学局長の少将ウィリアム・マーカットは事前に「2リーグ制は日本のプロ野球に進歩をもたらす」と勧めている。実はマーカットと若林は旧知の間柄だった。ハワイ・マッキンレー・ハイスクール当時の1924年、日系人チーム「朝日軍」の一員として、白人の「ワンダレス・クラブ」と対戦した。その遊撃手がマーカットだった。ある時、GHQから呼び出しを受けた若林はマーカットと20数年ぶりに再会。マーカットは「今の日本の世相を明るくするのはスポーツ(野球)以外にない」と説いた。「プロ野球発展に必要な2リーグ制を推進できるのは、オーナーで正力松太郎、プレーヤーでボゾ、君よりいない。援助は惜しまない。どんな障害も乗り越えて実現に努力したまえ」

マーカットはまた正力声明にある米球団招待で、GHQ総司令官ダグラス・マッカーサーに3Aサンフランシスコ・シールズを推薦、説得した。来日が決まった9月、シールズ監督、フランク(レフティ)・オドールが若林にあてた手紙が残る。写真や資料を同封し「再会が楽しみだ」と記されていた。オドールは1931(昭和6)年、34(昭和9)年と2度、大リーグ選抜チームの一員として来日。全日本チームの選手兼通訳として活躍した若林と親交を深めていた。

サンフランシスコ・シールズと全日本の試合前。右から若林、オドール監督、藤本定義、鶴岡一人(1949年10月)=若林忠晴氏所蔵=

昭和24年、日米野球でのオドール監督(中央)と全日本の若林(左)、別当(右)=若林忠晴氏所蔵=

1948年のプロ野球開幕戦でスタンドから始球式するマーカット少将=『真説 日本野球史』より=

オドールから若林に届いた手紙。「フランク・オドール」と自筆のカタカナ文字も見える=若林忠晴氏所蔵=

毎日の勧誘

球団拡大を進める正力が白羽の矢を立てたのは毎日新聞だった。「利行は一法なり」という禅の教えを信条とし、「競争は発展の母」という考えがあった。将来の2リーグ制をにらみ、一方の「盟主」として期待を寄せ、球団設立を持ちかけたのだった。

毎日のチーム編成、後の引き抜きなどで主役を演じたのが黒崎貞治郎だ。戦前、『長崎物語』や『空と神兵』を作詞している。1949年は東京本社で社会部長にあった。

8月8日、遠征から甲子園口の自宅に帰った若林は妻・房(ふさ)に黒崎から電話があったと聞いた。若林がすぐ応じたのは理由がある。黒崎とも旧知の間柄だった。

若林と黒崎が初めて出会っていた日枝丸と同型の氷川丸。現在も横浜・山下公園前に係留されている。

黒崎の方は夕刊新大阪で編集局長時代の1947(昭和22)年に主催したプロ野球東西対抗からの縁だと語っている。だが、若林は引退後の手記で、1931(昭和6)年4月の対面が描かれていた。法政大リーグ優勝記念の米国遠征、バンクーバー航路で乗りこんだ「日枝丸」船中で<1人の新聞記者と仲良くなった。これが黒崎さんだった>とある。<戦後に会ったとき、球団を持ったらどうかと話したことがある。黒崎さんは「球団をつくるときは協力してくれるか」と言うので、僕はもちろんOKした。「その時は君が阪神を辞めてくれないと困る」と言うが、「今は何とも言えない」と答えていた>

黒崎が会談場所に使ったのは大阪・北新地の割烹「甚五郎」だった。かつて大阪・堂島にあった毎日新聞大阪本社の通用口からすぐの所だ。黒崎は球団設立の趣旨を伝え、協力を願い出た。「国民リーグの二の舞は絶対にやらん」と言った。「あるのは決心と理想だ。理想的な球団をつくるにはどうしたらいいか」。口説き文句だった。

1953年11月、日比親善野球で渡比調印後、握手を交わす毎日・黒崎貞治郎球団代表とフィリピン側代表のヤプティンチャイ氏。後方は毎日・若林忠志監督(右)とパ・リーグ使節の南海・垂井芳太郎球団代表=毎日新聞社提供=

毎日球団代表当時の黒崎貞治郎氏(左)とセ・リーグ会長当時の鈴木龍二氏=『鈴木龍二回顧録』より=

毎日・黒崎貞治郎が引き抜きの勧誘に使った大阪・北新地の「甚五郎」

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著者:内田雅也
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筆者略歴

内田 雅也(うちた まさや)

1963年(昭和38)2月、和歌山市生まれ。桐蔭高、慶応大から85年スポーツニッポン新聞社入社。アマ野球、近鉄、阪神担当などを経て97年デスク。01年ニューヨーク支局長。03年編集委員(現職)。04年から『広角追球』、07年から『内田雅也の追球』のコラムを執筆。11年1月、『若林忠志が見た夢~プロフェッショナルという思想』(彩流社)を上梓した。

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