Vol.9 猛虎との決別

2011/10/15更新

移籍志願20人以上

2リーグ制や新球団への期待を膨らませる一方で、若林は待遇面で阪神球団への不満を募らせていた。引退後の手記にある。<昭和24年と言えば、みんな野球がやれる喜びに夢中になった後、余裕が出てきたころだった。ところが球団はがめつかった>。実際、阪神の年俸は他球団より低く抑えられていた。巨人の青田昇は1949(昭和24)年の年俸が20万円だったと明かし、「フジさん(藤村富美男)がオレより安いのでびっくりした」。本堂保次は前年「十年選手」となり、球団に5000円の借金を申し込んだがあっさり断られ、大陽に移籍。この年阪神に復帰していた。

タイガース復帰の本堂保次に花束を渡す若林忠志の長女・麗子さん(1949年7月10日、甲子園球場)=津上麗子さん所蔵=

戦後、復帰要請に訪れた球団代表・富樫興一は「選手たちが『給料が少ない、ストをする』と騒いでいる」と若林の求心力に期待していた。若林を慕う選手は甲子園口の自宅に集まるようになった。若林は<僕は独りで毎日に行く決心をした><ところが選手が承知しない。別当薫、呉昌征などは「バカらしい」と騒ぎだし、一時は20何人も毎日入りを希望してきた><選手に給料を培にするから残れと説得して回った>。

若林(中央)と藤村(右)、別当(1949年当時)

阪神の寝返り

球団拡大という正力松太郎の構想に日本野球連盟には加盟申請が相次いだ。正力が「盟主」に指名した毎日新聞加盟には既存8球団で巨人、中日、大陽が反対。正力は残る5球団から同意する旨の盟約書・連判状を取り付けた。

紛争は10月12日にサンフランシスコ・シールズが来日したため表面上からは消えた。ところが賛成派、反対派は水面下でしのぎを削っていた。巨人は阪神を切り崩しにかかった。「甲子園球場を満員にできる巨人―阪神戦を失ってもいいのですか」

1949年、シールズ戦の全日本に選ばれたタイガースのメンバー。(後列左から)藤村、若林、金田、別当(前列左から)本堂、後藤、土井垣、長谷川=『阪神タイガース 昭和のあゆみ』=

阪神の「寝返り」が明らかになるのは10月26日。日米野球の合間で、大阪で代表者会議が開かれた。マスコミ非公開の秘密会議だが、後に事実が明らかになる。例えば、同じく加盟申請していた近鉄の球団史に球団設立副委員長・芝谷常吉の談話がある。「阪神が寝返ったのですよ。当時は一夜でひっくり返ったと言われましたが、恐らく巨人―阪神という看板カードを重視した結果でしょう」。これで4対4。連盟は分裂状態となった。

11月22日、東京・目黒の雅叙園で開いた代表者会議で初めて「決定事項」として議事録に「2リーグ」を記した。正式に決まるのは11月26日、東京・丸の内の東京会館別館で開かれた顧問(オーナー)・代表者合同会議だ。巨人、阪神側はセントラル・リーグを宣言した。会議後、毎日新聞東京本社別館で阪急、南海、大映、東急に新加盟の毎日、近鉄、西鉄が集まった。屋上から「太平洋野球連盟生まれる」という垂れ幕が下がった。

母体となった星野組

加盟問題が紛糾するなかで、毎日はチーム編成を急いでいた。目を付けたのがノンプロだった。毎日新聞主催で10月7日~9日、福岡県内で開催した「ノンプロ4地区対抗オールスター大会」を開いた。別府・星野組の監督兼一塁手だった西本幸雄は「あれは品評会だったな」と振り返る。大会で社会人の有望選手をスカウトしていた。

星野組は前年1948(昭和23)年に都市対抗初出場で準優勝。この年は優勝を果たしていた。「火の玉投手」と呼ばれた左腕・荒巻淳を擁し、アマ最強を誇った。11月に入り、西本ら7人が毎日と契約。11月17日には毎日新聞大阪本社で新球団結成式が開かれた。11月19日から12月15日まで倉敷で新球団始動となるキャンプを張った。

1949年8月、都市対抗野球大会で優勝し、場内一周する別府市・星野組の選手。先頭で黒獅子旗を手にするのが西本幸雄監督兼一塁手(後楽園球場)=西本幸雄氏所蔵=

毎日球団始動となった倉敷での秋季キャンプ中、スポーツニッポン新聞の1面を飾る新人の西本幸雄。写真説明は「毎日のホープ西本」とある。1949年11月26日付。

「火の玉投手」と呼ばれ、別府・星野組から毎日オリオンズに入団した荒巻淳。写真は毎日時代。

球団史『阪神タイガース 昭和のあゆみ』完成を発表する沢田邦昭球団代表と奥井成一資料室長(1991年)

毎日オリオンズ創設メンバー

位置 背番号 名前 前所属
総監督 35 湯浅 禎夫※ 毎日新聞大阪本社
監督 33 若林 忠志※ 阪神
コーチ 30 苅田 久徳※ 急映
34 内海 寛 毎日新聞大阪本社
投手 10 浅井 守 東洋産業
11 荒巻 淳 星野組
12 榎原 好 篠崎倉庫
13 野村 武史 東洋産業
14 佐藤 平七 函館大洋倶楽部
15 祖父江東一郎 愛知産業(元大洋)
16 上野 重雄 門司鉄道管理局
17 萩原 昭 志免鉱業
18 星野 武男 東洋紡富田
41 山根 俊英 鐘淵化学
捕手 19 土井垣 武 阪神
20 片岡 博国 函館大洋倶楽部
21 長島 進 豊岡物産
31 東口 清美 星野組
内野手 2 今久留主 淳 星野組
3 今久留主 功 星野組
5 西本 幸雄 星野組
6 河内 卓司 大洋漁業
7 奥田 元 古沢建設
22 野村 輝夫 明治大
24 本堂 保次 阪神
27 三宅 宅三 明治大
32 大館 勲夫 阪神
外野手 1 伊藤 庄七 愛知産業
8 戸倉 勝城 大洋漁業
9 小田野 柏 常磐炭坑(元阪急)
23 呉 昌征 阪神
25 別当 薫 阪神
26 小俣 秀夫 星野組
28 白川 一 星野組
29 増山 博 大塚産業

※印は選手兼任。

不協和音

若林と阪神フロントの代表・富樫、常務・田中義一とは「鉄の結束」だったと、当時マネージャーの奥井成一が書き残している。例えば、東京遠征の定宿、千葉・松戸の海老屋旅館では若林の監督専用の部屋に富樫と田中が寝泊まりした。

阪神時代の若林と次男・忠晴氏(1949年ごろ)=若林忠晴氏所蔵=

この結束も球界再編の嵐の中でほどけてしまった。フロントは待遇改善を訴え続ける若林を持てあますようになった。若林の要求はことごとくはねのけた。

若林と懇意だった大井広介が『タイガース史』に9月末には監督更迭を考えていたと書いている。<「時にあんたは若林はいつまで監督をやるつもりだと思うか」と設問した。(中略)「若林は投手として限界に達したと見極めたら、さっさと球界から去るのじゃないでしょうか」と答えると、「さあ、どうだか。本人は『名監督』のつもりなのだからなあ」とそっぽを向かれてしまった>

阪神時代の若林(右)と藤村富美男(1949年ごろ)=若林忠晴氏所蔵=

若林が毎日から勧誘されている情報は入っていたはずのフロントだが、積極的に引き止めた形跡はない。逆に水面下では新監督擁立に動いていた。9月下旬、田中の命を受けた土井垣武、外野手・中田金一が名古屋で町工場を営んでいた松木謙治郎の元を訪れ、監督としての復帰を懇願していた。

キスで別れ

シーズンを5位で終えた阪神は12月10日から25日まで、発足したばかりのセ・リーグPRを兼ねて巨人と帯同遠征を続け、浜松から山陽路、九州と巡った。この期間に引き抜き、引き止めの策動が行われていた。既に若林は毎日移籍を決心し、土井垣も手付け金を受け取っていた。毎日の黒崎貞治郎が若林、土井垣、本堂、呉昌征から契約書のサインを取ったのは12月24日、倉敷だという。別当薫は結婚準備で休んでおり「すべて若林さんに任せていた」。

若林、別当ら主力選手の毎日移籍の「異変」を特集する1950年元日のスポーツニッポン新聞

阪神・巨人帯同遠征の最終日はクリスマスの12月25日、小雪ちらつく甲子園球場だった。この日は連盟が定めた所属球団との優先交渉期限。阪神は既に毎日入りを決めている若林と呉に新規契約の条件提示を行っている。当然、2人は拒否した。

阪神-巨人帯同試合最終戦を報じる1949年12月26日付のスポーツニッポン新聞。クリスマスが若林の阪神最後の日となった。同時に土井垣の毎日移籍も報じている。

試合後、若林が選手たちのもとへ退団のあいさつに出向こうとすると、球団職員に拒否された。悲しく寂しい別れだった。スポーツニッポン新聞は<試合後、14年間着慣れたタイガースのユニホームを脱ぐとき、若林の目には涙が一杯たまっていた>と伝えた。若林は手記に書いた。<ユニホームにキスをして、阪神に決別を告げた>。

若林が阪神と交わした契約書の数々。最後の1通(手前)の期間は「昭和24年1月末まで」=若林忠晴氏所蔵=

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筆者略歴

内田 雅也(うちた まさや)

1963年(昭和38)2月、和歌山市生まれ。桐蔭高、慶応大から85年スポーツニッポン新聞社入社。アマ野球、近鉄、阪神担当などを経て97年デスク。01年ニューヨーク支局長。03年編集委員(現職)。04年から『広角追球』、07年から『内田雅也の追球』のコラムを執筆。11年1月、『若林忠志が見た夢~プロフェッショナルという思想』(彩流社)を上梓した。

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