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Vol.10 見果てぬ夢

2011/11/1更新

突っ走った優勝

2リーグに分かれた1950(昭和25)年、セ・リーグ開幕の3月10日、パ・リーグは大阪で「集結披露会」を開いた。「輪タク」でパレードし、前夜祭も開いた。

セ・リーグ開幕とパ・リーグ開幕前日の模様を伝えるスポーツニッポン新聞(大阪)昭和25年3月11日付1面。パ7球団は大阪市内を「輪タク」でパレードした(写真は毎日新聞大阪本社前)

阪神主力を加えた毎日は開幕から突っ走った。3月8勝1敗、4月に8連勝。6月に15連勝。荒巻淳、野村武史らノンプロ出の投手陣と、別当薫、土井垣武、本堂保次、呉昌征ら阪神組の投打がかみ合った。2位に15ゲーム差をつけての独走優勝だった。

セの優勝は松竹。阪神は4位に沈んだ。大リーグ式に「日本ワールドシリーズ」と呼んだ第1回日本シリーズは大量引き抜きで主役を演じた両球団の対戦となった。

第1回日本シリーズの試合前。左からディマジオ、オドール、若林、毎日・湯浅監督(1950年11月22日、神宮球場)=若林忠晴氏所蔵=

日本シリーズ勝利投手第1号

若林は出番が少なく、シーズン成績は14試合で4勝3敗。それでも優勝を決めた後、11月12日の近鉄戦(藤井寺)では完封勝利を飾った。42歳8カ月での完封は、2010年9月4日巨人戦(ナゴヤドーム)、45歳0カ月の山本昌(中日)があげるまで60年間破られなかった。この完封は日本シリーズに向けた最終調整だった。若林は10月末、総監督・湯浅禎夫に「第1戦は僕に投げさせてくれませんか」と直訴している。舞台の神宮球場は法政大時代に親しんだマウンドだ。さらに若林がボール球から入る配球を示したことで、湯浅は緊張と重圧の初戦を老巧さに賭けたのだった。

11月22日当日、神宮球場には懐かしい顔があった。フランク・オドールがジョー・ディマジオ(ヤンキース)とともに進駐軍の慰問で来日していた。GHQのウィリアム・マーカットもいた。それぞれ投手、捕手、打者となっての始球式が行われた。

若林は初回先頭、松竹の1番・金山次郎に打ち合わせ通り、ボール球連投で焦りを誘い、三ゴロに打ち取った。若林は延長12回、161球を投げ完投勝利。浴びた7安打はすべて単打。奪三振1に打たせて取る妙味が出ていた。

第1戦をとった毎日は4勝2敗で初代王者に輝いた。優勝を決めた第6戦(大阪)で若林は7-3とリードの5回無死満塁で救援し、絶好調の岩本義行を敬遠する奇策も用いて、ピンチを逃れている。

昭和28年、マニラ遠征時の毎日メンバー。後列左から3人目が若林、2人おいて荒巻、前列左から2人目が西本=若林忠晴氏所蔵=

毎日・若林監督(左)と阪神・松木謙治郎監督=若林忠晴氏所蔵=

41歳以上で完封した投手

名前 所属 年齢 年月日 相手 球場 被安 スコア
山本昌 中日 45歳
0カ月
2010年
9月4日
巨人 ナゴド 6 3-0
若林忠志 毎日 42歳
8カ月
1950年
11月12日
近鉄 藤井寺 4 3-0
大野豊 広島 41歳
8カ月
1997年
4月30日
中日 ナゴド 3 6-0
山本昌 中日 41歳
8カ月
2007年
4月17日
阪神 ナゴド 3 5-0
若林忠志 阪神 41歳
2カ月
1949年
5月31日
大陽 衣笠 5 4-0
若林忠志 阪神 41歳
2カ月
1949年
5月21日
東急 福山 5 10-0
若林忠志 阪神 41歳
1カ月
1949年
4月9日
阪急 西宮 6 2-0
若林忠志 阪神 41歳
1カ月
1949年
4月2日
大映 後楽園 4 1-0
山本昌 中日 41歳
1カ月
2006年
9月16日
阪神 ナゴド 0 3-0

サンタクロース

日本一となった1950年12月23日、若林はサンタクロースとなって大阪・豊中市の克明小学校を訪れている。「クリスマス給食感謝の催し」の特別ゲストだった。翌日のスポーツニッポン新聞1面<ニコニコ・サンタ爺さん>の記事に若林の談話がある。「僕は子どもから招待されたら、どんなことがあっても駆けつけます」。2男3女の若林の子どもたちはそろって「父はクリスマスに家にいたことはありませんでした」と振り返る。「いつもどこかの施設や学校を回っていました。『お前たちは両親がいるから幸せじゃないか』と言って出かけていきました」

「若林サンタ」の小学校訪問を報じる1950年12月24日付のスポーツニッポン新聞

神奈川県大磯町の戦争孤児の収容施設「エリザベス・サンダース・ホーム」との交流は1948年2月の設立当初から続いた。創設者の岩崎弥太郎孫娘、沢田美喜は戦前から日系2世の世話をしていた。若林は「2世連合会」副会長で親交があった。

占領軍兵士と日本女性との間に産み落とされた子どもたちは偏見と貧困にあえいでいた。子どもたちが成長し、1956年、ホーム内に聖ステパノ学園小学校ができると、野球チームを結成した。若林は赤い色のユニホームを贈り、指導に出向いた。

毎日移籍後も各地で少年少女の育成に力を注いだ。

大分・別府市の児童福祉施設、光の園白菊寮の子どもたちから届いた手紙が残る。りんごのお礼が書かれていた。<もう一度あそびたいなあ><ノックをしてもらい、ボールを受けたときの大きな音が胸に響きます><ほがらかな顔が浮かんできます>

少年少女に囲まれる毎日オリオンズ時代の若林=若林忠晴氏所蔵=

1952年には「塀の中」で野球を行った。戦犯容疑者が収容されていた巣鴨プリズン(巣鴨拘置所)での慰問試合。巨人と毎日の2軍が対戦し、若林が指揮を執った。

巣鴨には終身刑の判決を受けた人々がいた。A級戦犯はバックネット裏、BC級を合わせ、計約千人が見守った。若林に贈られた感謝の色紙が残る。「巣鴨慰問野球記念 贈 若林君」「熱球衝天」と書かれ、大物軍人、官僚10人の署名があった。

巣鴨プリズン慰問後、獄中のA級戦犯が連名で若林に贈った感謝の色紙(1952年5月)=若林忠晴氏所蔵=

若林は季節を問わず、全国を動き回る球界のサンタクロースだった。

幻の阪神監督復帰

1952年のシーズン終了後、毎日の新首脳陣が発表され、実権は湯浅から監督の若林に委ねられた。だがチームは高齢化もあり、1953年は球団創設以来最低の5位に沈んだ。責任を取る形で監督を辞任し、現役も引退した。2試合に登板したのは通算奪三振が999個で大台1000三振を狙ったとされる。通算防御率は1・99。投回数3000以上での1点台は他に野口二郎(セネタース)と稲尾和久(西鉄)しかいない。

若林の1000奪三振を伝える1953年10月5日付のスポーツニッポン。これが現役最終登板となった。

ユニホームを脱いだ若林は「日本ペプシコ」社長や米テレビ映画『ローハイド』などを輸入した「PCAジャパン」日本支社長に就いた。古巣阪神が監督として打診を行っていた事実がある。「阪神から監督就任の話がありました」と証言するのは三女・高田幸子だ。「父から『阪神に誘われている』と聞いておりました。ところが情報がマスコミに漏れて話は消えてしまいました。『代わりの監督を探してくれ』と頼まれ、カイザー田中さんを説得したと聞いています」。藤村富美男監督が解任された1957年の話だ。

「まだ夢がある」

阪神復帰がならなかった若林は1963年、西鉄にヘッドコーチとして招かれた。8年ぶりの球界復帰。30歳と若い選手兼任監督・中西太を補佐した。自ら渡米してロイ、バーマ、ウィルソンの3外国人打者を獲得、巧みな継投策を編み出した。奇跡と言われた逆転優勝を演出した。

西鉄ヘッドコーチ時代の若林(右)と中西監督

西鉄2年目の1964年3月、胃がんが発覚した。房の意向で本人には告知せず、記者発表も「潰瘍」とした。技術顧問に退いた同年12月、野球殿堂入りの朗報が届いた。選手では沢村栄治、ヴィクトル・スタルヒン、中島治康に次いで4人目。翌年に川上哲治、鶴岡一人……と続く。阪神選手では初の栄誉だった。記者会見で「僕はまだ夢を持っています」と語った。「日本とアメリカがワールドシリーズをやる時には、ぜひ監督を務めたい。僕はそれまで頑張る」

若林の殿堂入りを伝える1964年12月3日付のスポーツニッポン

1965年1月、東京・小金井市の自宅近く、武蔵野赤十字病院に入院。3月5日、午後2時40分、息を引き取った。57歳と4日の生涯だった。葬儀・告別式は3日後の8日、青山斎場で「プロ野球葬」(葬儀委員長=内村祐之コミッショナー)として行われた。

プロ野球葬で読まれた弔辞。上から内村祐之コミッショナー、中沢不二雄パ・リーグ会長、島秀之助セ・リーグ審判部長=若林忠晴氏所蔵=

964年野球殿堂入り表彰式は翌65年7月19日、オールスターゲーム第1戦(後楽園球場)で開催された。故・若林氏のお孫さんによるレリーフ除幕=野球体育博物館提供=

阪神に帰るとき

若林は生前、「阪神に帰りたい」と繰り返していた。「タイガースを去ってからも、片時もあの黄と黒段だらのチームカラーを忘れたことはない。スポーツニュースを見るときも、新聞を読むときも、いつも最初にタイガースを探していた」

そんな阪神復帰への思いがかなう時が来た。2010年にできた甲子園歴史館には「若林コーナー」ができ、2011年4月から7月末まで「若林忠志展」が催された。

甲子園歴史館にある若林コーナー

若林の功績を再評価する球団は2011年7月21日、「若林忠志賞」の創設を発表した。社会貢献活動やファンサービスで顕著な功績のあったチーム内の選手を表彰する。「グラウンド外」のMVPだ。若林忠志は、その名、その心とともに阪神に帰ってきた。

<終わり>

筆者略歴

内田 雅也(うちた まさや)

1963年(昭和38)2月、和歌山市生まれ。桐蔭高、慶応大から85年スポーツニッポン新聞社入社。アマ野球、近鉄、阪神担当などを経て97年デスク。01年ニューヨーク支局長。03年編集委員(現職)。04年から『広角追球』、07年から『内田雅也の追球』のコラムを執筆。11年1月、『若林忠志が見た夢~プロフェッショナルという思想』(彩流社)を上梓した。

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